南風原の石獅子群
解説によると、照屋の隣にある本部では石獅子を東風平の八重瀬に対するフーチゲーシ(邪鬼返し)の目的で造ったんだそうだけど、それが結果的に照屋に向くかたちになってそれに対抗して造ったと言われているそうだ。そか、本部の石獅子をまだ見つけてないんだけど、この獅子の方向にあるのかな?
なんで対抗したかって言うと、本部と照屋の部落間にはかつて湧井戸問題でしばしば抗争があったと言う言い伝えもあるらしい。南風原町指定有形民族文化財のひとつ。
これはこの石獅子のそばにある絣糸の張り伸ばし場。
絣糸の張り伸ばし場はこんなの。
照屋の石獅子Aの近くにもうひとつのBがあるはず。村の中は人気が余りないので聞くのも結構大変だったりする。照屋ノロ殿内と言うのがあったのでこの近くにありそうだなとそっちに向かって歩くことに。
ノロの殿内とは、ノロ火の神―ヒヌカン―が祭られている場所または建物のことをいうそうだ。そういえば、内嶺城跡にもヒヌカンが祭られていたっけな。
ノロ殿内を通りすぎて行くといいタイミングでおばぁに出会ったので聞いてみたら、そこの坂を上にいきなさいと言われて登っていく。
あ、あったあった。これもユニークな顔してるね。これも照屋の石獅子Aと同様に本部の石獅子に向けて作られたそうだけど、1つの石獅子に対して照屋の人たちは2つも作って対抗したんだとしたら余程、いやだったんだろうなぁ(^^;
さて残る石獅子は本部のひとつ。このふたつの獅子が睨んでる方向に行けばいいんだな(^^;
写真は本部公園の近くの道からみた照屋の石獅子Bがある小高い丘。右には南星中学校がある。
さて照屋の石獅子の原因ともなった本部の石獅子。本部の街路を歩きまるもののなかなか発見できない。何人かの人に聞いても分からない。どっかで見たような気もするんだけどなぁと言う人もいたりしたのだけど。照屋の石獅子の方向に向かって多分坂の上の方にあるはずと並行移動して捜していく。
今までの中で一番ユニークと言うか獅子らしくないね。モアイのちっこいの見たくもあるし、おもちゃのおまけの頭でっかちな人形みたいでもある。それに小さいし。
本部の南南西の方向にある東風平の八重瀬がシーザン(火山)として恐れられていたことは、南部一帯に広く伝承されているそうだ。この石獅子は、その八重瀬に対するフーチゲーシ(邪鬼返し)の目的で作られたと伝えられている。ただそれが結果として隣の照屋に向けられたこになって、照屋の石獅子が対抗して作られたと言うこと。でもね、獅子が邪鬼を跳ね返してくれるものなら別に向けられてもそう怒らなくてもいいような気もするし、この小さな獅子に対して大きめのを2体も作らなくってもと思ったりする。湧水問題で対立してたりしたというからそっちの方が大きいのかもね。照屋も本部も隣り合った小さな街なのにいろいろあったんだろうね。
実はこの坂道は上から下りてきたことはある。しかし急な坂でカーブもしているし、看板がある訳じゃないのでまず気付かないだろうなぁ。
この通り、坂をちょっと下っただけでもう視界から消えてしまう。下から上ってきたら気付くかもしれないけど、それでも見える時間はわずかなので見逃してしまうかもしれないな。やっぱり歩いて捜すのが一番か。
最後は、兼城の石獅子。この石獅子は偶然発見したと言うか近くまで来たので思いだしたので行ってみた。ここもかなり分かりにくいところにあるが、道の曲がり角に一応は矢印がある。なければほぼ分からないのではないだろうかと思う(^^; その道の先の先の細くなったどんずまりにひっそりとあるのがこれ。
風化してるのか、壊れてるのかよく分からないが、獅子と言うよりただの石にしか見えなくもないな。
説明によると、普通南部では東風平の八重瀬へのヒーゲーシ(火返し)の目的で置かれたものが多いが、この石獅子は、上間(那覇市)へのケーシ(返し)の目的で置かれたと伝えられている。当時は、この一帯の人々にとっては上間も恐れの対象だったことを示しているそうだ。
この地図にそれぞれの石獅子の位置があります。地図は拡大も、マウスで移動もできるので便利ですよ。右のメニューをスクロールすると下の方にある史跡の項目から選択してくださいね。
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